平成23年度桜蔭会富山支部 「夏の食事会~先達に聞く~」
中西久子さんのお話
プロフィール
昭和8年東京都生まれ、3歳から富山。昭和31年お茶の水女子大学国文科卒。 平成11年より日新薬品代表取締役。
私の父は、当時あった「薬事就職」というので富山へやってきました。私が3歳の誕生日の頃から、奥田寿町に住み始めました。 家が忙しいというので3年保育をやっていた唯一の幼稚園(青葉幼稚園)に入り、市電を使い桜井病院前という電停で下りて通園していました。
男子師範の付属小学校に昭和15年に入学し、20年には終戦を迎えました。 旧制女学校の最後の年でした。
富山大空襲~聞こえなかった玉音放送~
太平洋戦争は日本にとって経済戦争でした。ABCD包囲網で経済封鎖され、ガソリンやゴムなどは入ってきません。日本中が食べていけないという時代でした。 軍部に問題がいろいろありました。 学徒出陣の人たちを富山駅で見送っていたのを覚えています。富山駅のホームで早稲田の校歌を歌っていました。わたしは小学生であまりわからなかったですけど、それでもすごく悲壮な思いでした。
終戦前に、岩峅寺から30分ほど歩いた山のなかに疎開したんですよ。8月1日の富山大空襲のときは、わたしと上の妹は3時間行列してやっと南富山から電車に乗って、夜8時ごろになんとか疎開先に行き着いたら、「よく来たね」って言ってもらい、ご飯食べさせてもらってそれが嬉しかったです。おなかがすいていたからね。
その夜、空襲警報がなってね。上を見たら、空が真っ赤になってB29がやって来る。頭の上からおなかをパッっと開くと焼夷弾が落ちてくるんですよ。攻撃しようと思って高度を下げてやってくるから見えるんです。父と母と下の妹は、空襲の次の日に別々に富山から歩いてきたと言っていました。 男の人たちは次々と軍隊にとられ、残って仕事をしているのは、年寄りと子どもばかり。そのころ農業では馬を使っていましたから荷馬車があったんです。荷馬車に、戦争に行かずに残っている男の人が乗って、消防士の服も無いから刺し子の半纏を着て、手甲はめて長靴はいて、富山の町へスコップを持って行くわけです。たくさんの亡くなった方を川原に並べたりするんです。「子どもは行くもんじゃない」って言われ、わたしは小学生だから置いていかれました。父たちは夜遅く帰ってくると、用水路で身体を洗ってから家に入ってきました。
松川べりでたくさん死なれたのです。 川の水が熱くなるってほんとうですよ。富山は攻撃がほとんど焼夷弾だから、川が熱くなるんです。
玉音放送は、わからなかった。雑音がひどくて何言ってるかわからなかった。 ラジオはその村落に1台しかないから、みんな集まって聞いているわけです。わかんないな、と思っていたら、「これで戦争が済んだよ」っておじさんが言ってくれた。大人にはわかっていたんでしょう。ひどい雑音でした。
ギリシャどころじゃない破産状態の日本
われわれより2世代前の親たちが一番たいへんだったですよ。 日本は破産状態だったから、いまのギリシャどころじゃなかったです。国家公務員だったですけど、給料は封鎖をされちゃうんです。三千円とか四千円とかもらっているのですが、月に現金化できるのは500円くらい。それなのに、インフレがひどいから、長いことお金が手もとになかったと思います。
あとでわかったのですが、疎開させてもらっていたのは、親戚じゃなかったんですよ。全然赤の他人だったんですよ。終戦の次の年の6月まで約10か月ほどいました。親もなんとかして富山に出なきゃって思ったけど材木がないわけ。バラックを建てるにも大きさを決められていましたよ。乙号、丙号って。住まいは六畳と四畳半だけ。瓦は無いから屋根板がのっているだけ。長いことみんなそうでしたよ。
台風が来ると親が屋根の上にあがるわけ。そうしないと、屋根板がとばされちゃって雨が漏ってくるから。冬は寒かったと思いますよ。暖房なんて無いですよ。石油ストーブも無かったですよ。ゴムが無かったから下駄を中にいれて、藁で編んだ雪靴をはいていました。 試験になると停電するの。来週がテストなんて言ってるのに、夜8時になると電気が止まってしまうわけ。しかたがないからろうそくの光で勉強したら、たちまち近眼になっちゃいました。やろうかな、と思うと停電しちゃうわけ やる気がうせて寝てしまう。 それを思うとほんと、いまのみなさんたちは幸せだなと思うんですよ。
1500人を連れて満州から引き揚げてきた義父
もともと薬問屋をやっておりました。主人の父親は満州にいました。北満、チチハルというところで、関東軍などの軍隊に薬を納めていたの。そしたら、戦争に負けて、チチハルはロシア領のそばだから、引き揚げてくるのに1年かかりました。日本人は満拓(満洲拓殖公社)に大勢が行っていました。関連で開拓の仕事にかかわっていた人を100人ほど養っていたと父親が言っていました。そしてそこのチチハルから1500人ほどの日本人を集めて自分の手持ちの薬をロシアに渡して1500人を貨物列車に乗せて無蓋の列車を仕立ててもらって帰ってきたわけです。そしたら、いまで言うコレラが発生したんです。大連の先のところに島があって、日本人を押し込めてコレラが終息するまで出さなかったそうです。帰ってくるために、日本から貨物船が来るのを、何ヶ月も待っていたようです。食べるものが無くて死にそうだったって。下関へ上陸したとき、みんな本当に泣いたって言ってました。
下関から汽車にのって、富山駅に帰ってきたら、「ごくろうさまでした」って言っておにぎりをくれた人がおられたそうです。引き揚げて帰った人にあげていたボランティアの方だったと思います。 毎日のように引き揚げの人が着いていたのでしょう。
富山にもいた進駐軍
終戦後の富山は瓦が全部落ちて、街中それこそ瓦礫の山でした。 いつもおなかがすいていたので、庭をほじくりかえしてはなにか食べられるものを探していました。 富山にも進駐軍がきていまの電気ビルにアメリカの国旗を掲げて、GIの人が行き来していました。 GIの人はいつも制服を着て歩いていましたが、非番の日だと思いますが、やたら女性に英語で声をかけるんです。「映画見に行こう」「○○へ行こうか」という具合に。わたしたちは、怖くって逃げていました。
戦後に大学進学
戦争が終わって、新制中学になりました。わたしは女学校の4年生でしたが、新制高校の併設中学となり、富山高校となりました。だから、高校受験はしていないのです。64回の卒業生で学区制でした。北部高校、東部高校がそのときにできました。 富山高校は商業科がありましたが、1学年500人くらいでした。1クラスは55~60人ほどでした。初めての全国統一模試もおこなわれましたし、富山高校と都立高校が連携して試験の結果の番数発表などもしていました。
塾などはなく、裕福な家庭は家庭教師を雇ったりしていました。 東大へいくのは3~4人。中部高校からもだいたい同じ程度でした。 まだまだ、富山から出て受験することはあまりなかったし、女性が大学にいくことに抵抗のあった時代でした。
わたしの母は日本女子大をでていて、母の姉は女高師でした。父親は次男でした。長男が跡取りの時代でしたから次男は学者にというのがずっと代々続いていました。 わたしは何も思わずに、母が女子大へ行きなさい、と言うので、「はい」とばかりに受けたわけです。親は公務員でお金があまりなく、国立へと言われていました。
3月3,4日が大学の入学試験で発表が19日でした。
東京へいくのも11時間ぐらいかかり、いまの3時間半は夢のようでしたね。 学生時代は休みごとに富山へ帰ってきていました。寮には300人ほどいました。大山寮でした。卒論も大山寮で書きました。テーマは何をやったかもう忘れました。
教師をへて夫の後を継ぎ薬業へ
卒業したら今よりひどい氷河期。特に地方から出ていった女の人には、学校もなにもしてくれませんでした。あのころは自分でなにかしなければならなかったです。 しょうがないから、出版社に1年ほど勤めた後、千葉の第三高校、いまの千葉東高校に勤めました。女高師卒業の先生もいらっしゃいましたね。やがて結婚したのですが、保育設備が全然無いので、子どもができたら辞めざるをえない。
子どもができて辞めて、しばらく埼玉におりましたが、富山で主人の両親の具合が悪くなって富山へ帰ってきました。東京オリンピックの前の年でした。まだ、一般家庭には電話もテレビも無い時代でした。
仕事をしていたのでテレビと電話があったのです。 夜、「こんばんは」って近くの方が(わが家の)テレビ見にくる。また夜も500メートル歩いて電話の呼び出しに行きましたよ。怖くてね。中教院前から会社まで20本以上電柱を立ててひいてもらったの。東西南北は家がなかったの。 専業主婦でしたが、家族8人おりましたので3時頃から夕飯のしたく、すっかり後片付けがすむと夜9時ぐらい。でも、どういうわけかガスがあったんです。なんとも言えない冷蔵庫もありましたよ。氷で冷やすとかね。冷凍室はなかったです。
主人の父親がずっと薬業をやっていまして、昭和44年に亡くなり、主人が後を継いでいました。主人が社長のときに、「一緒にやらないか」と言ったのでずっと手伝いをしていました。 12年前に主人が亡くなったとき、1週間以内に役員会を開いて次の社長を決めなければならなくて、そのときから社長をやっています。従業員は18名ほどです。
(会社は)多くの卸売業同様、薄利多売でチェーンストアの本部に売り込むんですよ。インターネットでドラッグストアのチェーンに薬をネットにのせてもらう。そうすると、北海道でもどこでも売れるんです。東北の大震災でことしはちょっとキツイです。津波でドラッグストアも被害を受けてたいへんです。日本でも有数のチェーンを持っているストアですが、東北で60店舗も津波にあっています。
かつては たくさんいた売薬さんは、いまは少ないです。現地で販売会社をつくり、住んでいる。全国を回っている人は少ないです。高齢化とともに後継者問題もありますしね。
於:白楽天(富山第一ホテル) 参加者12名
支部では、不定期に先輩方のお話をきいて紹介したり、交流する機会を企画していきます。
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